吉原理恵子著「間の楔」は発表から30年以上を経ても、尚も読者を魅了する名作。
※年号にすると 昭和→平成→令和に至り、改めて感じる凄み。
次回は未定としながらも結局「れいこくむじひ」の続きを記事にしました。
私の「間の楔」の初読みの印象が某SFアクション映画(シリーズ)part2の冒頭場面であることは前回述べました。今回はそれにプラスしてヒーロー不在であることを下記に述べます。
出できた瞬間に否定される(笑)「いらすとや」さんのヒーロー
実は某映画では人類側に優れたリーダーが存在し、人類軍は多大な犠牲を払いながらも決死の攻防を続け、機械軍のアンドロイド兵や兵器を確実に破壊していく様も冒頭シーンでは描かれています。
一方「間の楔」にヒーローは存在しません。正確にはかつてのヒーロー(達)が掲げた理想は完全に潰え、その残骸は強大な廃墟ダナ・バーンとなり果て、物語のクライマックスではそれさえも木端微塵に破壊されます。それはケレス(スラム)住民の心のどこかに在ったかもしれない希望の僅かな残り火さえも完全に消え去った瞬間に思えました。
しかも
“ミダス市民のケレスへの怨嗟の声は更に熱を帯びるだろう”
吉原理恵子著「間の楔6」P291(Chara文庫・徳間書店)から抜粋
と加筆修正版で付け足された一文は、これからも惑星アモイに住む人類は、支配者たる機械の思惑通りに互いに不毛な争いを続けるだけの未来を明確に示しています。
ただ「間の楔」はあくまでイアソンとリキの物語であり、二人が迎えた悲劇的結末を“救い”と捉える為の根拠が一連のディストピア設定ではないでしょうか?
そんな思いを私は以前
おーぷんハム (@5FAr87VyujKPjwT) / Twitter
アカウント名で3+1回ツイートしたことがあります。
①「間の楔」がSFであることの必然性。それは結末が"ダナ・バーンの悲劇"である事の必然性と=(イコール)であると私は考える。
②「間の楔」が現代劇であれ歴史ものであれ、例えファンタジー要素があってもイアソンとリキが立つのが少なくとも"ちきゅう(地球)"であると認識してしまうと、悲劇を防ぐ術はあったと抜け道を探してしまう。けれども彼らが立つのは遠い宇宙の"わくせい(惑星)"だ。
③"ちきゅう(地球)"ですらない異界である事が作者がChara文庫本版第6巻のあとがきで述べた "絶対に覆らないヒエラルキーの住人であるイアソンとリキ" であること、だからこそ悲劇しかあり得ない事に何よりの説得力を与えているのではないだろうか。
④ですよね。そして"地球=(イコール)人間が支配"の前提すなわち常識が通用しない異界、SFの古典「●の惑星」のような逆転した世界観、それが読者にもリキ達人間が感じる絶望と諦念を共有させ悲劇さえも受け入れさせているのだと私は考えています。
※④は①~③のツイートにいいねとリプライを下さったフォロワーさんへのリプライです。
つまり惑星アモイ・タナグラとは正に二人の悲劇の為に創られた舞台であると私は考えています。
では、まだ語りきれてはいないのですが文章がこれ以上どうしても纏まらないので今回はここで終えます。続きが次回になるかどうかは現時点では分かりません。
(-_-;)
<あとがき>
前回に引き続き「間の楔」を某映画と絡めて考える無理矢理考察でした。ただ、その為に某映画(part2)についても色々と考えることになり、浮かんだ妄想が···
···リキって某映画に登場する人類のリーダー(少年時代)と似てないかな?と。
不良少年で少し小柄でバイクに乗ってて・・・手の付けられない悪ガキだけど情があって···。
それに「間の楔」作中で語られるリキのカリスマ性を読むと、リキも人類のリーダーになり得る素質はあったのかも?とか思うのです。
但し、あくまで地球のみが舞台の某映画と違い「間の楔」は幾つもの銀河を超えた遥か宇宙の果てに在る惑星が舞台です。そこの支配者たる機械が相手だとスケールが大きすぎて太刀打ちは無理ですね!本家本元でリキは自身の立身出世さえも潰えた訳ですから。しかもそれ自体が罠で要は最初から弄ばれてたオチ。
(T_T)